帰りの会で触れるクラスメイトの日常生活

投稿者: | 2022年10月12日

今から、40年ぐらい前の昭和の話。私が小学校1年生の頃、1クラス45名クラスで8クラス、小学生生活がスタートしました。当然、児童数の増加で、2年後に新しい小学校が新設されて、新ピカ校舎の小学校に異動することなりました。当時、複数の小学校から、その新しい小学校に寄せ集められての新学期を迎えたのが、小学校3年生。新設の小学校で、先生達も若手の先生方が多く、卒業後、当時担任に話を聞くとそのような教師集団だったとのこと。

思い返すと、小学校6年間で3名の先生にお世話になりました。そこで記憶にあることは、この先生方は、学級通信を定期的又は毎日、発行していた先生達でした。年間で言えば、300号近くになる計算。年度末には、全てを、再度、印刷して順番に綴じて、印刷所に出して製法して、学年の思い出として配布してくれました。当時、他のクラスでもそのようにしていたか、分かりません。ただ、私にとっては2人目の先生である、3年生と4年生のクラス担任は、強烈でした。学級通信は、毎日発行でした。当時は、ワープロもなかったので、大変だったと思います。

学級通信には、いわゆる家庭への連絡事項もありますが、それだけではないのです。学期ごとにノートを配られて、週に何回か作文を書いておいでと、指示が出ました。時には、自主的な書くこともあったと思います。その作文ノートの中から、私達子どもが書いた作文をチョイスして、学級通信に掲載するわけです。学級通信には、時々の特集シリーズや、作文の掲載など多彩でした。帰りの会では、配布した学習通信の内容を、私達子ども達は、目で追いながら、必ず学級通信を先生が、すべて読み上げます。当時、回数は覚えていませんが、何となく自分の作文が、掲載される事が多いイメージを持っていました。

当時の野崎ちゃんは、お勉強はできる方ではなかったですが、文書を書くことには、自信を持っていたことを今でも思い出されます。当然、友人達の作文も、なるほど、面白いな!、と言う具合いです。日常の出来事を子どもの視点で、表現をしていた作文を評価してくれていたような気がします。優等生の作文は、やはり、それ相応な内容であるのは言うまでもありません。しかし、クラスメイトの日常の出来事をクラスで共有するという、楽しみな、帰りの会でした。読み上げられた作文を、クラスメイトが聞いていて、その後の反応を興味深く見ていたように思います。そうなると、日常生活の中にある出来事を切り取るということを意識するようにもなりました。今度は、この事を書いてみようかという気持ちです。5年生から小学校3人目の先生、この先生も同じく、毎日、学級通信の発行が続きました。楽しみな帰りの会は、小学校が終わるまで続きます。年度末には、分厚い冊子にして配布をしてくれ、これを読み返すなんてしていました。このような先生方に、小学校時代にお世話になりました。先生方のおかげで、野崎ちゃんは、文書を書くことは、面白いというポジティブな印象を持ったまま、小学校を卒業をしました。

今から思うと、私にとっては、この経験がその後の人生でプラスに作用したことが多かったです。このような体験から考えると、子ども達の言葉の獲得、若者達の対人関係や表現方法、思考力なんかについて、考える事があります。なぜ、言葉が必要なのか、なぜ、言葉を獲得する必要性があるのか?、また言葉を獲得することの意味は何なのか?、ということです。テストで良い点数を取る為だけの言葉の学習ではなくて、考えたことを言葉して、表現する行為が、人間が社会生活していく上で不可欠であることです。

例えば、勉強をして何かを覚えても、学んだことを日常生活で、使えなければ意味はありません。テストで良い点数を取る方法や良い文書を書く方法は、存在します。しかし、ここで、考えたいことは、自分がこの場にいて感じたいこと、言葉にする前の感じたことを言葉にするという行為が、日常的にも、人生においても不可欠であるということを言いたいのです。感じることができも、表現する言葉が不足していると、感じていることがをうまく表現することができません。だから、私達は、大人になっても言葉の学習をし続ける訳です。私が、ブログを執筆をしているのも、それに近いものがあると思います。

小学生の野崎ちゃんにとって、先生方の熱心な指導で、育てられたことに、今も大変感謝しています。